風土記もどき「蕗のとう」から 季節にあまり関係しない文を
『随想・市野新田』として まとめてみました。

  
   ダチン

    子供のころの間食をダチンとよんだ。今の子供とちがい娯楽がない。
しかし野山や川をかけずり回り、その行動範囲は広い。
遊びながら野山の木の実を食べたり、花の蜜を吸ったり、畑のキウリやナスは何よりである。
特に戦後は砂糖きびもよくかじった。
    当時のダチンを思いつくまま書いてみよう。 <A男>

・スッカシ・・・生のまま食べると酢味がある。塩漬けにしたこともあった。 スイバ(酸い葉)。
・スッカンボ・・・イタドリ
・桑イチゴ・・・熟した黒い実で、口の中が真黒になるほど食べた。
・イッキの実・・・濃いピンク色のヤマ桑・ヤマボウシの実。
・ミヤマツ・・・小さい黒い粒の山ブドウ。
・クイバナ…田植えころ。花はほのかに廿い。
       ツツジの棒に、グイバナの花を刺して重ねて、
                     たくさんになると一口で花を食べる。
       ツツジの葉がふくれたものをモチといって食べた。
・アケビ・・・桔梗峠・クナノリ(倉ノ入)でよく見つけた。

・赤ツミ、黒ツミ、俵ツミ、さるのスッコンコン、田植えグミ、秋グミ、カシマメ、コウセン、カタモチ、アラレ etc.


 ありがたきかな・食べ物考

    今は お金を出せば何でも口にすることができる。
幼いころの、貧しい食生活から考えると、まさに夢のようである。
しかし当時母たちが苦心さんたんしたであろう料理は、またありがたい。
思い出しながら、今食べてみたいなぁと思うものを書いてみよう。 <A男>


1)イワシの入った「アブ」
    ウルチ米の粉をこねて、塩漬けのイワシを包みワラの灰の中で焼く。
大きなリンゴほどの大きさであった。焼き割れたところからイワシの汁が滲み出ている。フーフー息を吹きかけ、アブについた灰をたたき落としながら、二つに割るあの感触は忘れがたい


(2)まぜごはん
    終戦直後は、農家でありながら白いご飯はめったに食べさせてはもらえなかった。というよりは、食べてはいけなかったらしい。
 学校ではお昼になると弁当の検査があった。弁当の表面にだけ、イモやカボチャをのせ、その下に白いご飯というように、ごまかしたことも何度かあった。
 クラスの中には、オカユのような弁当を持ってきた生徒もいた。家を出てから学校に着くまで、ソーッと水平にして持ってこなけれぱいけない。そうしないと汁がこぼれてしまうからである。笑うに笑えないはなしである。
  そんな時代であるから、母たちはいろいろと苦心をしたものと思う。大根の葉を乾燥したもの、サツマイモの手(枝)、カボチャなどをまぜて量をふやす「まぜごはん」が主食であった。イモや豆は高級品の部類である。それにしても切り干し大根のまぜごはんは、冷えてしまったらとても口には入らない。


(3)イモダンゴ
 タイハク(太白)、オキナワ(沖縄)という品種のサツマイモを当時はたくさんつくった。
サツマイモは米につぐ主食であった。練り汁でこねた粉といっしょに、ゆでたサツマイモをこねて小判型にこしらえ、囲炉裏の炭火で焼いたもので、朝食にはいつも食べさせられた。少しでもイモの多いものを選びながら.カボチャダンゴもよく食べた。

(4)ショッカライリゴコ

    まさに先祖伝来、今も飽きることなくよく食べる。
経済的でしかも即席で、ご飯のおかずにはもってこいである。
冬の朝食には、ほとんど毎日登場する。よく食べさせられた。また大好物でもある。
    そもそも塩分をとりすぎ、休をこわしたのはこれが大きな原因ではないかと思う。とはいいながら、今でも我が家では、冬に欠かせない食べ物となっている。

〔付記〕雪にあたったやわらかい大根菜を細かく切り、塩でもんで一層やわらかくし、これを味噌と酒粕でゆっくり煮て作る。

(5)ドブロク

 祖父の大好物であった。酒がなかなか手に入らない時代であった。昔は石黒方面から、水筒や水枕に隠して運んだものとか,俗に「石黒正宗」ともいう。
  家の裏の横井戸(横穴)に隠し、夕方になると、カン鍋を持って何度か通った。税務署の取調べを避け、それぞれ秘蔵に苦労したと間く。・・・ これにまつわるエピソードや悲喜劇も沢山あった。
  それにしても、一献かたむけている時の祖父の、大黒さんのような笑顔は何ともいえない。本当にお酒が好きだった。

(6)焼き飯
  大家族ともなると、ご飯を炊くのに、8合や1升の米が必要だ。
大きな釜で炊いたご飯はまた格別である。なかでも薪火でできた焦げ飯に塩を一振りした焦げ飯のおにぎりは、この世の最高級品! 
味付け味噌を塗り、炭火で焼いたおにぎりは、学校の弁当にも重宝がられたものである。


(7)餅の弁当
  餅の弁当といっても、焼いた餅に生味増を挟みこんだごく簡単なものである。学校の弁当代わりに、その「餅弁当」を風呂敷に結わいて、腰に巻く。体温のためあまり固くはならない。適当な固さになっていて、なかなか乙な味である。塩鮭でも挟めると最高である。
 当時はスキーの遠乗りや、兎追いにも最適であった。
今でも、時々試してみたくなる。


 登 校

  戦時中の,国民学校に入ったばかりのころのはなし。
登校時間になると、「下の家持」の三叉路に全員が集合する。当時の高等小学校の最上級生がラッパを吹き、点呼をとる。横隊になり、「宮城に向かって、最敬礼!」 
 約2キロの道を歩調を合せて、学校に向かう。
校門前まで来ると、行進ラッパで団旗を先頭に校庭に入る。・・・・
そのころの、登校風景である。 <A男>


                

 教科書

    終戦の年に小学校入学。入学の時にもらった(?)教科書は、不都合なところを墨で消して使うことになった。
 あるページは、ほとんど全部墨で真っ黒に塗りつぶされてしまった。2年生の時に配られた教科書は、新聞紙のようになっていて、しかも製本されていなかった。
先生の指示でハサミを使って普通の本の大きさに切り、最後にヒモで綴じ、それを2年間くらい使った。
活字も小さく、ヨレヨレの紙だった。子供心にも悲しかった。
 2、3年すると製本された教科書になったが、4年生から6年生の間は常に一年先輩の教科書の“おさがり”を使った。
    中学校に入ると、少しはましな印刷となったが、弟の教科書はそのころ色刷りになっていた。我々は小学生のころは、色のついてない教科書を使っていたのだから、中学生になってからでも色のついた教科書を使いたいのに、いまさらというのか相変わらず色はつかなかった。弟の教科書がうらやましかった。 <B男>



 静岡のおばさん (おとらおばさん)

    農繁期や夏休みになると、大きな楽しみがあった。静岡のおばさんがやってくるからだ。
終戦後の20年代の10年間くらい、毎年のように見えた。
    終戦後の物のないころでもあったから、はるばると持ってくるみやげもの、例えばアルミ箔を貼った箱に入ったお茶や、木箱に入ったわさび漬などが楽しみだった。何よりも家族が一人増えてにぎやかになるのがうれしかったし、他所の話、都会の話が楽しみであった。それとおばさんのつくってくれる、母のそれとひと味違う料理に期待もあったからだろう。

 だいたい一ケ月くらい滞在し、帰りのおみやげは、家で採れたゼンマイやワラビの他は、きまってクルマブ(車麸)とお米であった。    当時お米を運ぶことは禁じられていたため、いろんな工夫をしていた。ある時は、白い布にお米を少しづつ入れては縫いこみ、ちょうど防弾チョッキのように、帯状に作り、腰に巻いて上から上着で隠して帰った。わずかなお米しか入らないと思ったが・…・、
 そして翌年は静岡にたどりつくまでの苦心談やら武勇談が語られ、妙に興奮したものである。 <B男>


 茅ぶきの我が家

   市野新田の我が家は、元禄時代に建てたものと聞いている。黒光りする太い欅(けやき)の大黒柱があって、家の貫禄を示していた。
    祖父や父がよく大工さんを呼んで修理していたのを思い出す。
台所を2、3回、風呂もトイレも2、3回と、祖父自身が大工であったせいか、かなりの頻度で修理をやっていたように思う。
    茅ぶきの屋根の下は、人が寝起きできるような2階はなく、そこには一年中の燃料としての薪とボイとワラが陣取り、下の囲炉裏で燃やす熱と煙とで自然に乾燥する仕掛けになっている。また冬は暖房、夏は暑さを防ぐ役目をした。家は皆、木でできているから、水まわりの台所・風呂・トイレがくさりやすく、いたみ易い。修理の多かったのもこのせいであろう。
    茅ぶきの屋根も子供のころ2回ほどふきかえた。何年分もの煤をすっているものだから、真っ黒によごれる仕事だ。一時間も手伝うと、まるで黒ん坊のようになってしまう。
    その後 茅を得ることもだんだん難しくなり、しかも職人や人手もなく、最後には、茅の上に更にトタンをふいてカバーしてしまった。

    縁側はその家の顔みたいなものであるが、その縁側が私の一番好きなところだ。一段の石を積み、その上に縁側があった。春・秋はよくひなたぼっこができるし、子供の遊び場でもある。
その縁側も冬になると積雪から守るため、雨戸が閉められ、更にその外側に横板(はめ板)がはめらられ、内側の障子戸との間が、細長い納戸や物置きに変わってしまう。春から秋のイメージが一変してしまう。
 
 昭和60年の秋、200年近く建ち続けたであろう 茅ぶきの家はなくなった。今は、土蔵だけが、ひっそりと建っている。
しかし「茅ぶきの我が家」は、今でも我々の脳裏に刻みついて、建ちつづけている。 <B男>







 水車小屋

 シンタクの道上に水車小屋があった。
直径5メートルはある立派な水車がかかっていた。
 スギウラからシンネンの前を通り、そこから大きな木の樋で水を落下させ水車を回す。この水は、水押しの沢から上水道として導き、マツバの部落(我が家の集落)の飲み水に供し、そして水車に注ぐ。水車を回わした水はまた田圃を潤し、更に下流へと流れる。まことにみごとな水の利用法であった。
  冬 吹雪の中を、部落の入口のタンジのあたりまで帰って来ると、コットンコットンと聞こえてくる。ああ家ももうすぐだなあとホッとする。
    水車を動力にして、粉挽き臼か回り、ワラ打ち、米つきが上下する。
水車の軸には大きなプーリーがつき、幅が20センチもある幅広の長いペルトがかかっていた。天井の梁と、それぞれの装置には段車があり、その日の水量や作業によって、ベルトをかけかえてスピードを調節する。原始的ではあるが、極めてダイナミックな水車であった。まさに理科の教材そのものであった。
    時々そのベルトがスリップしてはずれてしまい、大騒ぎになる。女こどもにはどうにもならない。
 また土間はコンクリートのうちっばなしで、冬は非常に冷たい。火鉢を持込んで暖をとりながらの作業であったから、大変につらい仕事であつだろうと思う。しかし私にとっては、このメカニックがとてもうれしかった。何度か、図画の題材にしたような記憶がある。
    後年、動力が水車からモーターに代わり、水車は飾りのようになり、そして最後は建物そのものも、とりはらわれてしまった。 くC男>



 風の又三郎 (仮設映画館)

  鵜川には今でいう娯楽は極めてすくなかった。しかしそれに不満を持ったことはあまりない。よそのことは知らないし、自分たちで創り出す遊びで充分満足していた。とはいいながら、年に何回かやってくる映画を見るのは楽しかった。
    きまって、小学校か中学校の屋内運動場が会場になる。
待ちきれずに開演時間の1時間も2時間も前から学校に行くと、係の人たちが暗幕を張り巡らしたり、ゴザを敷いたり、映写機のセッテングやらでその準備におおわらわである。

 映画のはじまるまでの、期待に満ちたあの時間がとてもたのしい。 おとなたちがゴザにすわって世間話をしているすきまをぬって、ほの暗い中を友だちと追いかけっこしたり、とっ組みあいをしたり・・・。
いつもの学校の体育館なのに、どこかよその場所に来たようにはしやぎまわる。
  映画はたいてい2本建で、4キロほどはなれた野田の小学校で同時開催されることが多かった。ほぼ同時刻にスタートし、一本が終わるとお互いに車で交換に走る。中山峠の途中あたりでそれを交換し会場に駆けつけて上映を再開する。こんな仕組みになっていたらしい。
従って、当然休憩時間があり、ときには一方でトラブルが発生すると、更にその調整時間が延びるというわけである。子供たちには、その時はその時で楽しかった。もっと長くてもいいのにと思うときもあった。だぶん当時のおとなたちもひとつの社交場としてこの時間を楽しみにしていたのかもしれない。
    閑話休題。「二十四の瞳」、「銀嶺の果て」、「夏子の冒険」 … と思い出す中で、ストーリーの記憶はきわめてあやしげであるが「風の又三郎」の ある一シーンの印象が強烈に残っている.
もう一度あの仮設映画館(?)で「風の又三郎」を見たい。

 暴風雨の中をズブ濡れになりながら、又三郎が歌う
       ドドード  ドードド  ドードド ド
      甘いリンゴを吹き飛ばせ
      すっぱいリンゴを吹き飛ばせ・・・

    今も、大雨に出くわすと、知らず知らずこの歌を口づさむ。
      ドドード ドドード  ドドードド ド ・・・           <C男>


 
大売出し
 (お富さん)

 秋の収穫も一段落したころ、たしか中学生のころであったが、父が知合いの呉服屋さんにたのまれて、「大売出し」に2、3日我が家を提供した。 呉服・反物・衣料雑貨が家の中いっぱい、所狭しと並べられ、殺風景な我が家も急に娠かになった。
    精算は現金だけでなく、お米や大豆、小豆でもOKであった。どちらかというとお米が多かったように思う。現金収入が少なく、またなかなか買物のチャンスも少ない時代であったのか、村の人たちにも歓迎されたようである。
   人手が足りなくて、私はレコード係をまかされた。
トランペットスピーカを家の前の大きな杉の木にくくりつけ、市野新田の村中に、客の呼び込みのための音楽を流す役目である。
    主に歌謡曲のレコードが十数枚あって、それをとっかえひっかえ、ほとんどきれ目なく流すわけである。レコードの音がいつもは静かな田園に響き渡り、申し訳ないような、誇らしいような、妙に照れた気持ちになる。
 買物というより、世間話にやってきたおばさんたちからリクエストが入り、いつのまにか同じ曲を、何回も何回も繰りかえさせられた。
当時流行していた春日八郎の「お富さん」である。

 ”大売出し”=“レコード”=“お富さん” ・・・ 私の連想ゲーム。  <C男>


 雑貨店

    昭和37年から、雑貨屋を開業した‐
数年前から、我が家に設置された公衆電話の番(伝言サービス)をしなくてはならないし、市野新田から宮原の弁慶田商店までは2キロはあるので、部落の人のためにもなるだろうし、商売にもなれば、ということで 父の発案で、なれないことを始めたわけである。

   しんみりと母が語ったことがあった。

    ある夏の日に、幼い子が、
「アイスキャンデーくださーい!」といって駆込んできた。
「どれにしようかね一」
といって母が店に出てみると、5〜600メートル離れた家からきた5才くらいの女の子であった。
あれこれと迷った末に、一本のアイスキャンデーをとりあげた。そして左手にしっかり握りしめていた小銭を、母にさしだした。5円玉である。
しかし、もう半年も前から、キャンデ一は、10円になっていた。
「あのねぇ そのキャンデーは10円なんだいや一」
「・・・・・・」
その女の子は、今にも泣き出しそうになっている。
やっと親から5円のお金を貰い、勇んでやってきたのだから無理もない。

    そのあと、母はどうしたのかは話してくれなかった。
「そうゆうことがあるんで、お店番するのは、やだいや一」
そんな時はたぶん何度か、そのまま子どもにあげていたのではないだろうか。
    数年ほどして「農集電話」の設備が各戸に入り始めたころには、その雑貨屋をやめた。 <C男>



 電 話

    あの当時電話がかかってくると、その都度電話の内容をかかってきた相手の家に伝えたり、あるいは呼出したりのお使いをした。近所までといっても10分も20分もかかる所もある。夏は自転車を利用するから良いが、吹雪の夜は大変であった。
 その連絡費は内容や季節にに関係なく、確か1件10円だったような気がする。多いときは結構な小遣いになったが、何に消えたか覚えていない。 <D男>


 帯戸運び

    黒岩の母の実家が柿崎に引越し、そのあとを村の施設として改造して利用することになった。不要になる帯戸(間仕切り用の漆塗りの木の戸)があるので、それを貰うことになった。何故か、それを運ぶのに自分が選ばれた。母とふたりで桔梗峠を越えて、2日がかりで黒岩に行った。    荷物がなくても大変な峠を、重い板の帯戸を2枚背負って帰ってきた。
    ちょうどすぐ上の兄が東京から帰省して、ふたりで黒岩に行って帰えってくるころだと聞いたらしく、家から冷たいアイスキャンデー(?)を持って、峠の途中まで迎えに来てくれた。しかし生憎
夏の暑さのため全部溶けて水になってしまっていた。
その帯戸も市野新田の家も今はない。  <D男>

〔付記〕
    久し振りに帰省した時は、お盆前の暑い盛りであった。
あの峠を母と弟が重い帯戸を担いで家に向かっていると聞いた。雑貨店をはじめる前だったと思うが、アイスキャンデーなどを委託販売していた時のように思う。
    そうだ、このアイスを持って迎えに行ってやろう・・・と思った。
しかしクーラーボックスはないし・…・・もちろんドライアイスもない・・・
いろいろ考えた末、(今思うと滑稽なことだが・・・) まずアイスキャンデーをビニール袋に入れ、断熱材の代わりというわけで綿を見つけて、もう一枚のビニール袋に、アイスの袋を包むように綿で囲って入れて出掛けた。しかし、峠にさしかかるころには、ほとんど溶けてシロップみたいになってしまった。
今も鮮明に覚えている。  <C男>


 
父と新製品

(1)耕運機
    小学生のころ、我が家に耕運機が入った。市野新田で一番早かったと記憶している。
試運転の日、近所の人が大勢集まってその働き振りに目を見張った。子供心にこれで農作業が少しは楽になるんだなあと思った。

(2)テレビ
    小学校5年か、6年であったか?。12月の中旬に、学校から帰ると家の前に電気屋の車が止まっていた。すぐにテレビだと直感した。それまでは、親戚の餅粮(もちろう)の家で一、二度見ただけであった。
    部落中で話題になり、その年の12月31日の「NHK紅白歌合戦」は、近所の人たちが全部といっていい位大勢の人々が集まり大賑わいであった。 4、50人も集まったのではないかと恩う。

(3)洗濯機
    最初に父が買ってきた洗濯機は、お風呂のお湯を掻きまぜる時に使うような格好をした器具だった。バケツにお湯を入れてこの器具で押して洗う方法。  疲れるだけであまり効果はなかった。
   次に買ってきたのは、直径30センチほどの人工衛星みたいな球型の機械であった。球型の中に洗濯物とお湯と洗剤を入れハンドルをグルグル手で回す。 これは前のよりは少しよかったが、評価はいまひとつであった。
    しばらくして、ようやく本当(?)の洗濯機が入った。
当時はまだ電気洗濯機は珍しいころであったが、家族が多かったため、父が少しでも母に楽をさせようと、何度も試みた結果だと思う。  <D男>


 
母と料理

(1)パン・ジャム・サラダ

    当時婦人会で料理の講習会がよくあり、母は習ってきたことを家に戻ってからその日に作っていた。その中でパン(ケーキ?)と、たぶんイチゴジャムの変形だろうと思うが、カボチャのジャム。それとマヨネーズを卵からつくるサラダ(よく卵の掻きまぜ係をやらされたが・・・)が、非常に懐かしい。

(2)笹寿司(押し寿司)
    子供のころは、いわゆる江戸前のにぎり寿司は知らない。寿司といえば海苔巻き寿司と稲荷寿司だけだと思っていた。その中で秋祭り(たしか8月26日?)に母が作る「笹寿司」は、我が家の自慢の味であった。
    作り方は、シイタケ・ゼンマイ・ワラビ・カンビョウ・タケノコ・ニンジンなどの山菜を中心に、酢を利かした五目ごはんのようなものを作り、専用の箱に笹を敷つめた上に、この寿司ごはんを薄く平らに詰める、その上にまた笹を並べ、またごはんを詰める。これを幾重にも重ね、最後に落し蓋をして、その上に大きな漬物石をのっける。1、2時間ほどして箱から取出し、笹ごと庖丁で切って出来上がり。いわば、押し寿司、箱寿司である。

(3)豆 腐
    小学生のころ、何か行事があると、家で豆腐を作った。前の晩から水に浸して柔らかくなった大豆を石臼で挽いて作る。その石臼をよく挽かされたが、小さいころで、かなり疲れる作業だ。
途中で「ニガリ」を加えて凝固させることになるのだが、豆腐になる直前の通称「おぼろ」に醤油を数滴たらして食べた。あれは旨い!
今この「おぼろ」は食べたくても食べられない。<D男>


 ギター

    物心ついたころ、我が家に古いギターがあった。
後で聞いた話によると、そのギターは穂波町の兄さんが、若いころ父の反対を押し切って(?)手に入れたものらしい。
中学の2、3年の時、兄さんに教わって「影を慕いて」のメロディー(伴奏なし)が弾けた。
     そのころ母がよく台所でその曲を鼻歌で歌っていた影響もあると思う。それが大学に入って、その作曲者の作ったマンドリンクラブに入部するとは、当時は夢にも思わなかった。
    幸か不幸か解らないが、現在自分自身が音楽の世界にいるのも、あのギターがあったからと思う。 <D男>



 道 草

   市野新田から通っていた同級生三人で行動することが多く、学校の帰りには、よく道草をくった。
あるとき、マリつきが流行し、学校までマリをもっていって遊んでいた。帰り道、デコボコ道のそれでも平らなところをみつけなから、マリをつきつき帰る。(当時は、もちろん舗装されてはいない)
車もめったに通らないし、人もそんなに通らない。まさに毎日が「歩行者天国」である。
    友だちのひとりが、マリをつきはじめた。そのマリが見当がはずれ、石にあたって道脇の田圃にポーン! 夢中になっている友もそのマリに続いてダポーン!  あ一あ、両方とも泥だらけ!。
     私ともうひとりの友達は、悪いけれど、笑ってしまった。何とも可哀相だけれど、おかしいんだもの。
ふたりがかりで田圃の中から引き上げてはみたが、どうしようもないので、そのままの姿で家に帰った。今思い出しても、おかしくって笑ってしまう。

    よくベンケダ(弁慶田商店)で、5円のアンパンや5円のアイスを買い食いして帰った。それでも長い道中でお腹がすくので、給食の残りのコッペパンをカバンから取り出して食べた。そのコッペパンのおいしかったこと。
    途中オシッコが出たくなれぱ、道傍の草の陰でチョット失礼。今の子は恥ずかしがって家までがまんして、着くやいなや、少しおもらししてしまう。もっとも、「途中でやってきな」といっても、この辺では市野新田とちがって、通る人も多いし、陰になる物もないから、無理な話かしらん。   <E子>



                
     
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