海 (鯨波)

    小学校5年の夏になると先生に海に連れていってもらえることになっている。
鯨波の海まで、野田や水源池を通っていくのである。
  長い4里(16キロメートル)の道を歩いても、海に近づくにつれて、疲れも忘れ早足になる。家々の間に見えだした青い海を今も忘れない。
そして、お寺に泊まった楽しい思い出も。  <B男>

  
川で水遊び

    子供の目線にかえってとよくいわれるが…
記憶に残っている川は 広かったよなあ… とつくづく思う。
エマル前の川、今の神社の下の川が、小さいころの水泳場であった。
橋の上、下流各々10メートル位のところに作られた、深さは1メートルもなかったと思うが、小さい体だから相当深く感じたものだ。
 川石で堰止めワラや柳の小枝などで水が漏れないように工夫されていた。
水カガミをのぞきヤスでカジカを突き、山竹の先に釣り糸をつけてクソバイも釣ったことも思い出す。 くA男>


  夏休み

    小・中学校合同の部落少年団という集まりがあり、先生はオブザーバー的におられるだけで、自分たちで水泳場所を決めて川を堰き止め、今のように親が監視するわけでもなく、先輩が後輩を見守り、そして決められた時間内に泳ぎそして家に帰る。
確か12:30〜3:00までが水泳の時間だったと思う。
    また、お宮さんに学習帳を持って集まって宿題をしたり、道の掃除などの奉仕活動をしたり、もちろん遊んだり…・
「窓際のトットちやん」じやないけど、今では想像もつかない。   <D男>

  
蝉とり

   市野新田には大きなブナ林が数カ所ある。
残雪の中で、若い芽吹きが始まる。そして春が過ぎ田植えの時期を迎えると、ブナ林から蝉たちの合唱が始まる。
    山萩の細い部分を丸くまるめて竹竿の先端にしばりつけ、家の回りでクモの巣を捜し、丸く輪にした部分にグルグル回してクモの巣を張りつける。ベタベタした糊状のクモの巣に蝉がひっつく仕掛けである。
 捕虫網も何もない時代である。先人の知恵であろうか。
チビチビ、カナカナ、アブラ蝉、ギットコ…・とたくさんの蝉をつかまえた。  <A男>


  
横井戸

 蔵(土蔵)の横に、横井戸があった。崖に掘られた横井戸は、腰をかがめながら真っ暗の中を5〜6メートル進むと、堰の奥には地下水を満々と蓄えていた。夏にここに入るとヒャーッとしてとても気持ちがいい。 冷蔵庫としてスイカやマクワ、トコロテンなどをこの中で冷やしていた。
   あの横井戸の水は冷たかったなあ。
夏、のどが渇き誰かがヤカンをもって汲みにいき、その水をコップについで一気飲みの競争をする。 縁側に腰掛け、
「トモちやんがなんばいのんだ!ヨッチャがなんばいのんだ・・・!!」
ワイワイ騒ぎながらバカ飲みしたっけ、それで良く腹をこわしたのかしらん? くE子>


  
お盆・盆踊り

    8月13日から16日の4日間行われる仏事である。
盆や正月は一年中の二大節気であり、正月は福寿を祝い、盆は祖先をまつる。8月10日ころまでに、墓掃除をすませ、13日の夕方墓参りをし、仏を家まで迎える。帰りは提灯をともし、家に帰って座敷に案内し、仏間に通す。 16日は精霊送りといって、提灯をともす。 この間、棚参りといって、親類、家内(やうち)の祖先の霊を拝し互いにのりとを交わす。
 「結構なお盆でございます。盆前はいろいろお世話になりました。盆後も相変わらずお願い致します」と。 

 サーサ 一座のみなさん方ヨ コラショット
 サーサ 一座のみなさん方ヨ ヨシタヨシタ ヨーシタせんせい ・・・
  
    13日の夜から盆踊りが続く。お宮さんの狭い境内ではあるが、大勢の人達が集り 踊りの輪が二重にも三重にもなる。時には部落毎に日を定め村中の人達が集り、三階節、甚句、ヤサヤサ節、あるいは仮装踊りと深夜まで老若男女が賑やかに、踊る。
しかし昭和50年ころから踊りの輪はできなくなってしまった。  <A男>


  
お墓参り

    「お一い墓にモチあげてきてくれ!」と母にいわれ、朝はやく兄たちと、つきたてのアンコロモチを皿に盛り、裏山の坂道を登り、お墓とお宮さんにお供えに行く。
餅をお供えしてお参りする、そして帰りにはその餅を下げ、家に帰るのだが家に着く頃には、その皿の中はみごと空っぼ。そうです、子供たちの腹の中に収まり、皿を洗う手間を省きます。
    家に帰れば、たくさん食べられるのに、このお供えはまたひと味違っていたように思う。お供えも笹餅、アンコ入り笹餅、粉餅、白餅、おはぎ・・・といろいろにかわる。この餅はいくつでも腹に収まるけど、そっくり私の贅肉となり体が重くなってしまう。いまは少しひかえめにしているが好物には違いない。  <E子>


  
田の草取り
    
   夏のまっさかりにする農作業が「田の草取り」である。
腰をかがめ、手で草を抜いたり泥の中に埋めたり、一日中 田の中を掻き回す。
“何がつらいといって、田の草取りが一番きつい”と母たちは語っていた。特に腰をかがめ四つんばいになって作業をするため、腰は疲れるし、ちょうど稲の葉先が顔のあたりに来るので、時々稲の葉先が目を突いたといって目をはらしていた。
    稲の株一条毎に転がす、スクリュー状の歯のついた除草機が現れたが、きつい作業には変わりがなかったようである。
この時期の子供の手伝いは、子守りやお昼の弁当やお茶を届けるのが日課であった。 <C男>








  
炭焼き

     山村では、米に次ぐ収入は「炭焼き」である。
我が家では生産しなかったが、近所の多くの家では、最盛期に、4貫匁俵(15Kg)で約100俵から、一番多い家で450俵くらいを生産したということである。
   黒岩の山、荒又沢や、片道2時間もかかる遠くの山で炭を焼き、タ方薄暗いなかを、炭俵を2俵ずつ背員いながら、あるいは牛に背員わせて帰るさまが今でも頭をよぎる。苦しい生活の中で、労働力を必要とした仕事だけに、小学校高学年にもなると、男の子供たちは手伝いにかりだされたのである。 <A男>

  
スナンタロウ  (スナンタロウ残酷物語)

   小学生だったころの夏、仲間が集まるとよく裏山に行った。裏山には 遊びの材料がたくさんころがっている。多分「山がいこ」のー種と思うが、主に栗の木や楢(なら)の木に寄生する  うすみどりの毛虫を採ってあつめた。
子供たちはこの毛虫を「スナンタロウ」という親しみのある愛称で呼んでいた。
正式の名前はわからない。俗称もなまって覚えているのかもしれない。(注)
    毛虫というと気持ちが悪いが蚕の仲間と思えばそれほどでもない。
当時は、蚕を飼っている家も多くあった。自分の家では飼っていなかったが近所から蚕のタマゴをもらい、孵化(ふか)→幼虫→成虫→繭作り→蛹(さなぎ)→羽化→産卵・・・という 蚕の一生を理科の観察として 記録したことがある。
   それはともかく、「スナンタロウ」 をビンにたくさん詰めて集め、裏山を駆け下りる。
台所にいって、酢のビンを持ち出し、空き缶をみつけそれに酢を注ぐ。
準備OK!

ここから先は、さすがに苦手であったが、いきがかり上、話を進めましょう。

  まずー匹のスナンタロウをつまみあげ、両手の親指と人差し指でつまみながら、エイ、ヤー とねじる。哀れスナンタロウは引き裂かれ、透明感のある内臓みたいなものが現れる。これをすかさず空き缶の酢の中に浸ける。 ややしばらくして、(2〜3秒? 10秒?) その内臓みたいなものの両端を両手につまみ、ス一と手を広げる。すると、みるみるその腸のようなものが手の尋一杯に伸びる。
   酢の濃度や酢に入れるタイミングと時間、伸ばすときのスピード・・・など、なかなかのテクニックを要した。途中で切れたり、太すぎたり、太さがムラになったりで、ワイワイガヤガヤと生産に勤しんだ。60-70センチから うまくいくと 1メートル以上の長さになる。
透明で極めて強い糸ができる。釣りに使うテグス(テングスといっていたが)である。  <C男>

(注:昆虫写真家の小川宏さんによると、その毛虫が網目の繭を作る種であれば、和名をクスサンという蛾ではないかと教えてくださいました。)


  
桔梗峠

    市野新田と黒岩(中頚城郡柿崎町:当時黒岩村)の間に峠がある。
母の実家が黒岩であったので 8月の中頃になると弟妹を連れてよく里帰りをしたものだった。黒岩のおじいさん、おばさんに会いにいくことと、途中の林でミンミン蝉を採るのがとても楽しみだった。
    行きは峠までが短いので楽だったが、帰りは、峠までが長くて しかも急だったからつらかった。
峠の頂に着いたときのほっとしたこと!
振り返れぱ はるか遠くに柿崎の海が見えたものだった。  <B男>

       
〔その2〕
     母の実家に行くには、枯梗峠という 子供の体カでは非常にきつい峠があった。
兄たちとは歳が離れていたこともあって、黒岩に行くときは母と二人か、妹との三人が多かった。
黒岩に行くのは好きだったが、その前に桔梗峠を越えるという難関があった。
    子供の足だと一日がかり、学校の遠足のほぼ倍はある。
峠を登り、そして下だる。黒岩の「大函・小函」の岩の見える場所までくると、あと少しの安堵感でいっぱいになる。(大きくなってからこの岩をあらためて見ると、思っていたよりも遥かに小さかった。)
この付近にくると深い崖があり、崖の下には大きな川が流れ、その崖の林の中から、市野新田では間けないミンミン蝉の大合唱が、うるさいくらいに聞こえてくる。途端に足は軽くなる。
   黒岩の家には珍しい物がたくさんあった。 生れて初めて見るレコード(蓄音機)、美術全集、大きなヨットと汽車の模型・・・etc. ニ階に上がって部屋の中を探訪するのたのしみであった。  <D男>


  
大沢 (ミズナ・デツボコ・ハッタカス・輝石)

  夏になると、大沢にミズナ(ウワバミソウ)を採りにいった。
このおひたしは、多少のヌルリがあり好物であった。
段々畑(田)を登りつめ、更に奥に足を進めると、やっと通れるくらいの細い道下に、谷川が流れている。この川の水際にミズナがたくさんとれる。
   水量はそれほど多くはない川底を経て岩肌の露出した崖をよじ登っていくと、うっそうとしたブナ林の中に、直径50センチ位の穴から、手を切るような冷たい水がコンコンと湧き出ている。(デツボコという) そのすぐ上には小さな洞があり、そこに石碑が立っている。(不動明王?) この水をビニールパイプで延々と集落まで引き、各戸の水道としている。 標高も高いから長くパイプを引いても相当の水圧があった。
     この大沢にはミズナの他に2つのたのしみがあった。
その一つは、通称ハッタカスとよばれる「サンショウウオ」が棲息している。
体長5〜8センチのイモリに似た、極めてグロテスクな代物である。
棲息場所もどちらかというと、チョロチョロと清水の湧いているような所が多く、小さな石を取除きながら追込み、両手で掬うようにして捕まえる。
ハッタカスは強精剤でもあったのか、つかまえて障子戸の障子に張りつけて干乾しにするとか、生きたまま飲むとかいわれていたが、それはあまりにかわいそうである。
     もう一つは八方石とか六方石とよばれる小さな黒石を産出する。
角が欠けていたり、安山岩がくっついていたり、なかなか形の整ったものは見つからない。 この石は表面が乾いてしまうとつまらない小石であるが、水の中に入れると鮮やかな黒石となり「輝石」と称していた。  くC男>



                    

                                                        

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