秋まつり


    お盆も終わって間もない8月26日、市野新田の秋まつりである。まだまだ暑いのに、どうして「秋まつり」なのか、小さいころ不思議に思った。
    お寺(大慈院)の床下から、ノボり柱を運ぶ。神社の石段の傾斜を利用してノボリを建てる。祭礼の提灯がぶらさがりいよいよ秋まつりである。
   春まつりより賑やかである。境内に小さな出店も出た。青年団による演芸会や相撲大会もあった。せいどのおじさんの名司会、名行司ぶりは今でもはっきり覚えている。 <A男>







 収穫の秋

    田植えの頃と同様、子供たちには農繁期休暇が与えられ、農作業を手伝う。
稲刈り→稲かつぎ→ハサ掛け→ハサおろし→稲こき(脱穀)→乾燥→調整(籾から玄米に)→計量→俵つめ→俵運び→…
 そして、その合間に、大豆・小豆・さつまいも・大根の収穫・…・まさに、農家のメインイベントである。
    忙しい最中に、わずかな時間を見つけて きのことり・栗ひろい・あけびとり・柿もぎ・・・と自然の中に遊ぶ。またたのし…


             
稲刈り 稲かつぎ 稲掛け

   稲かつぎ

    一輪車も、リヤカーもない、おまけに田圃は超湿田である。
当時は、米は田圃に常に水がなければ獲れないものと思われ、刈り取りするまで田圃には水が張ってあった。
 朝早く起こされて、ワラジやアシナカをはき、稲かつぎに出掛ける。
刈り取られた稲束を畦づたいに集めて、それを荷縄を使い4束から5束の稲をかつぐ。
稲は夜来の雨や露にすっかり濡れて重くなっている。
    幅一メートルもないような山道を急ぐ。道の中程が雨でえぐりとられ、油断をすると足を取られてしまう。荷縄が肩に食込むのをこらえながら、足もとを確めたしかめ歩く。稲を背負ったまま休める所を見つけて、ドサッと休む・・・   汗がドーッ出る。
    登校前に、2、3回これをくりかえす、むろん遠い所は1回がやっとである。
とてもつらい仕事であった。 <A男>

〔付記〕 1束(そく)=8把。1把(わ)=ほぼひと握り。直径が手のこぶし大。
      大の大人で6束を背負うのがカサと重量からしてほぼ限界。


  稲こき(脱穀)

  刈り取られた稲は、家を囲むようにつくられたハサ木にかけて乾燥する。10段や12段もある高いハサには、子供だけではなかながかけられない。稲投げもかなりの技術を要する。
2、3週間、ハサで干し、乾燥具合を確め家に取入れる。
    秋の夜は、あちこちで脱穀機の音がする。足踏みで脱穀機を回し、一把一把稲をこきおとす。時々稲束ごと巻込んでしまう、危険な上に大変な重労働である。  夜遅く、そして朝早くからこの作業は続く。更に昔は土間にムシロを敷き、餅つきの杵で、ポッツアラ落としといってセンバ(千羽)でこいだ稲穂をたたき、脱穀したものと聞いたことがある。
    脱穀したあと唐箕(とうみ)で、籾とワラクズを分け、籾が選別される。
動力脱穀機から、生脱コンバイン、とボタンひとつで脱穀できる今ではちよっと考えられないようだ。 <A男>

  唐 箕
(とうみ)


    最近の農機具の発達はすばらしい。
今は刈取りながら脱穀・選別できるような機械が一般的のようであるが、私が農作業を手伝ったころは、脱穀→選別一乾燥→精米とそれぞれ別々の機械で処理をした。
脱穀は、足踏み式から発動機に、さらにモーターによる動力に変わったが、原理的には同じようなものである。
    ところで当時、脱穀した籾や大豆・小豆の穀類をワラゴミと振分けるのに使っていた唐箕(とうみ)は、足踏み式の脱穀機と並んで、私にとってとても興味と郷愁をそそる農機具である。
羽根車を手回しでまわして風を起こし、その風の力でゴミの混じった穀類を吹き飛ばし、重さ(比重)によって落下位置の違うことを利用して振分けていた。
    ある夏の暑い日、扇風機がわりにならないかと思い、弟に唐箕を回わさせ、自分は唐箕の前に立った。・・・・。   
中に残っていた小さなゴミが飛んできて目に入り、うまくいかなかった。  <C男>


唐箕






 十五夜・綾子舞

    毎年9月15日は、十五夜といい、女谷(おなだに)の秋まつりが行われる。
叔母さんの嫁ぎ先が女谷の下野(しもの)にあった。この十五夜が近づくと、必ずといっていいほど遊びにいって、何日も泊めてもらい世話をやかせていたらしい。
    市野新田から鵜川小学校までは2キロはあるから、子供の足で4、50分はかかる。
ところが下野の叔母さんのところからだと10〜15分で充分。しかもそこには自分より2つ上と1つ下の姉妹をはじめ8人の従兄弟がいたし、なによりも”お客”である。何かと理屈をつけて長逗留をきめこんでいたらしい。
    後年気がついたことであるが、実はもうひとつ大きな理由があった。「綾子舞」との出会いである。
昭和25年8月に早稲田大学の本田安次先生が来村。綾子舞が世の中に知られはじめた記念すべき年である。そしてこの年か翌年の9月15日は、たぶんいつもとちがった雰囲気で、黒姫神社での「綾子舞・奉納」が行われたのではないだろうか?
    当時小学校3年生か4年生で、その場面に居合わせた興奮が、今でも綾子舞にこだわり続ける原因ではないかと思う。
 ともかく、9月15日が近づくと、下野の皆さんや綾子舞を思い出す。<C男>


下野・小原木 高原田・小切子 大勢の観客で埋まった会場


 イナゴとり・落ち穂ひろい

    登校前朝露を踏んで、イナゴとりをする。
手拭を袋に仕立て、竹を口元にしばり、イナゴをたくさんとったものである。学校の給食室で大きな釜に湯を沸かし、取ってきたイナゴを釜に入れ、10分ほどで赤くなったイナゴを莚(ムシロ)にこひろげ、天火で乾燥する。校内一斉ともなるとみごとなものである。
    食糧の厳しい時代、一粒の籾も大切にと、稲刈りの終わった田圃やハサ場の下の「落ち穂ひろい」も大切な手伝いである。 くA男>



〔その2
     取り入れのすんだ田圃に、稲の切り株が並ぷ。
手拭を袋状にし、その口元に長さ10センチ位の竹筒をくくりつけたものを、それぞれが用意し、いつもより30分ほど早く集まる。
 お宮さんの下あたりから一斉に田圃に入ってイナゴ取りの開始である。元気のいいイナゴ、切り株の反対側にかくれる すばしこいイナゴ、多少へばった奴などさまざまである。
    田圃は、取り入れ時に水を抜くので子供だったらソーッ歩けばもぐらないほどには固くなっている。稲の切り株を踏みながら用心深く田圃に入る。 それでも時々稲株を踏みそこね、ズブーッともぐってしまう。
    そのうちイナゴを追いかけるのに夢中になって、田圃の中をあたりかまわずかけずり回り、靴を汚しズボンを汚しながら、袋を一杯にしてまた集まる。それぞれの収穫を見せ合い武勇伝を語りながら登校する。
    学校に、方々から子供たちが、取ったイナゴを持ち寄る。当時は数百人の生徒がいたのだから、相当な量になった。
  この日はお母さんたちが、学校に手伝いにきてくれて、大きな釜でそれをゆで、「イナゴの佃煮」の原料として、どこかlこ納め、何がしかの現金を得て、学校の図書になったり、文房具になったりしたようである。 <C男>

 
 きのこ狩り


    裏山から米山に通じる米山山道がある。その米山山道は、きのこの宝庫である。
ボイ山の手入れもよく、部落の人達の道刈りで整備されていた。
この辺りは、きのこ狩りマニアにとって格好のコースである。    
きのこ狩りの名手、庭山さんや平六のおじいさんの影響もあって、よくきのこ狩りにでかけた。
    ある時、直径30センチもあるお化けのようなきのこを一つ何もわからずに取って持ち帰ったところ、「これがコウタケだよ」と教えられ、更にきのこ狩りに夢中になった。
赤タケ、カキシメジ、ホウキタケ、ネズミタケ・…・と沢山のきのこがとれた。
    今ではその道も荒れ果て、きのこもなかなかみつからない。 <A男>


  あけびの実


    秋の収穫が終わるころ、野にある実に手が伸びる。
秋一番のあこがれは「あけびの実」だ。

家の裏の細い道を登って、墓地へ行く途中の左側の木に毎年数個ぶら下がる。また、桔梗峠の畑へ行〈右側のヤブの中に、それをいっぱい見つけたことがある。
    あの緑色だった実が薄紫色に染まったあけび。
枯れかかったつるにぶら下がったその実を見つけた喜び。<C男>






 品評会


    秋の収穫もほぼ終わり、越冬の準備にも追われる「勤労感謝の日」前後に、鵜川小学校・鵜川中学校合同の「展覧会」があった。今でいう文化祭である。
    子供たちは、図面・工作・書道・家庭科・…・の一年間の成果を作品として教室の壁いっぱいlこ貼り、家族や村の人たちに見てもらう。婦人会の生花も展示され、まさに花を添える。同時に農家の人たちは自慢の農作物を展示した。
    農協の人か、あるいはこのための委員会かよくわからないが、白菜・キャベツ・大根・ニンジン・ごぼう・稲穂・さつまいも … 等々それぞれ品種ごとに等賞を決め、金紙の一等賞、銀紙の二等賞、赤紙の三等賞という具合に出展票に貼られる。
    野菜を商売として出荷することは、規模の問題からほとんどなかったと思う。しかし農業に熱心に取組み、如何にしたら良い作物ができるか、それぞれの「作品」に見入り、各コーナーではその「作者」と情報を交換したり議論したりする姿が見受けられた。

    子供たちはこの日を「展覧会」といい、大人達は「品評会」という。
このころになると、米山はもちろん、黒姫山にも初雪があり、冬の真近いことを知らされた。
また長い長い冬が始まる。  <C男>




 いわしの塩漬け

     秋も終わりに近づくと、いわしを、高さ1メートルもある大きな桶にいっぱい漬ける。
一冬分の魚がこれである。この魚が、ダンゴの中に入れられ、冬の朝の食事となる。
    冬も終わるころになると、漬かり過ぎて粉っぽくなる。
これが、春近いことを知らせてくれた。 <B男>


                        

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