綾子舞古文書発見

    6.古文書発見                         

        過疎化が急速に進む鵜川の里の家には、住む人の姿もなく、打ち続く豪雪で廃屋が次々

    潰れていく。あるはずの古文書も過疎の激流の中へ押し流されて、ついにこの目で見るこ

    とは出来ないのか。村が柏崎原子力発電所用のダムの底に沈むのも間近いという。焦りに

    も似た思いで、あちらこちら聞き歩いた。そんな折、昭和59年(1984年)5月、姪っ子露

    美さんの結婚式があって帰柏した。たまたま会った同級生の渡辺光子さん(旧姓佐藤)から

    「江戸へ出て公演した庄屋の横田与左衛門とは澄子さん(同級生)の祖先で、高橋克英さん

    (同級生、当時柏崎市役所勤務)の奥さんの実家でもあるから、聞いてみたら」との助言で

    その晩、早速克英さんに会い頼みこんだ。

     それから3カ月後の同年8月15日、「嫁の実家から綾子舞の資料を含む江戸から明治

    にかけての古文書が500点ほど発見された。慶長年間(1600年代)から300年間にわた

    る戸籍票や、訴状などと一緒にあった。綾子舞に関するものは、江戸公演の依頼状と役附

    表である。コピーを取ったので送る」と言う朗報が電話で入った。私はいまだかつて味わ

    ったことのない興奮を覚えた。古文書はやはり江戸時代の折居村庄屋の土蔵奥深くにあっ

    たのだ。届いた資料は「乍恐書附を以奉願上候」という表題のある願書三通と、もう一紙は

    「越後国刈羽郡折居村 文子舞役附」とある年不詳の木版役附表に十二の演目が筆書された

    ものである。これには“石持ち地抜き橘”の家紋とともに役者、演目、笛、太鼓、小鼓、

    手平、鉦など囃子方、太夫元、世話人などが連記されてあり当時の上演の様子を知る手掛

    かりになる資料である。まず“石持ち地抜き橘”の家紋であるが前出の『甲子夜話』の記

    述に 「楽屋ノ入口ニ張タル幕ハ、布ノ古ビタル円(マル)ニ橘ノ紋ヲ出ダス、コハ彼徒ガ自

    分ノ幕トゾ」という文言と一致している。由緒ある“石持ち地抜き橘”の紋が使われてい

    たということはそれなりの由来があってのことであろう。“石持ち地抜き橘”の紋は日本

    の家紋の中でも最古のもので、奈良朝の元明女帝は、ことのほかタチバナを好まれ、お気

    に入りの女官三千代を召すと、次のように仰せられた。「タチバナは、霜雪に耐えてよく

    茂り、実は宝玉のように美しい。ちょうどそなたの姿そっくりです。これからタチバナと

    呼びましょう」と。以後この女性は橘三千代と呼ばれ傑出した子供を次々生んだ。 その一

    人に葛城王(かつらぎのおおきみ)がいる。この王は橘姓をたて橘諸兄と称し橘一門は栄え

    たが、平安時代に菅原道眞と同じように藤原一族によって失脚させられた。

    鵜川の里は、往古「宇河荘」といい京都の右京二条南の地にあった穀倉院領に属していた。

    穀倉院は平安時代初期創設以来、畿内の調銭や諸国の無主の位田・職田および没官田の地

    子、年料租舂米などを徴納していた。それは『師守記』『押小路家文書』『壬生家文書』

    『吾妻鏡』『康富記』『朝野群載』などの古文書によって全国に10カ所前後の存在が確

    認できる。越後国には、「宇河荘」のほかに柏崎が「比角荘」として穀倉院領に属していたこ

    とが『師守記』『吾妻鏡』に記載されていることから京都との行き来は盛んであったとい

    う。北面の武士、北国茂太夫の来村は考えられる。さらに、『甲子夜話』の後段に記述さ

    れている 「上邸ヘ来リシノ頭取ハ、折居村ノ庄屋、横田与左衛門ト云者・・・・・」という記述

    が一緒に発見された願書の宛人の一人「与左衛門」と一致することから、綾子舞が江戸で興

    行されたほぼ同一年代のものであると言えよう。依頼書は綾子舞折居組が庄屋横田与左衛

    門に宛てた文書で、内容は「村の困窮を救う為の江戸での興業の件、向こうの受け入れは

    いかがか、江戸公演実現のさいは綾子舞組中の者は一人も洩れることなく行かせていただ

    きたい」という文政13年(1830年)の日付のもの。この願書三通のうち二通には黒印が

    押され丁寧な文面であり、一通には押印がなく文面も不満足なものである。

     『甲子夜話』の記録が“綾子舞の里”鵜川でも初めて裏付けされたこととなった。送ら

    れてきたコピーを早速解読した。(別掲参照)打ち続く飢饉から生きのびるためだったのだ

    ろう、近隣の村々だけでは飽きたらず、江戸まで隊を成して出かけていった村人の姿が見

    えるようだ。文政13年(1830年)といえば北陸や陸奥では、すでに連年の凶作で人々は飢

    え苦しみはじめていた時だ。文政10年(1827年)から「順気(天候)よろしからず」とい

    う年が続き、この年は「当春季節不順にて、いたって苗不足にて、隣村より貰苗つかまつ

    り植えふせぎつかまつり侯」といった具合で、春から気候が不順で貰い苗までしてようや

    く田植を済ませた。今度は土用から雨天つづきとなり、稲が満足に育たず、心配した。8

    月に入り、ようやく暑気が戻り胸をなでおろしていたところ、今度は田一面に虫がつき結

    局「黒穂粗がちにて、まことに違作」というたいへんな凶作になってしまった。しかも、

    この年の5月、日本海側一帯を襲った大洪水によって田畑、山林ことごとく大きな被害を

    被っていたので、二重の苦しみを負わされた。特に、谷あいで豪雨の被害をもろにうけた

    折居村の人々は、この食糧不足から餓死者を出さないためにはどうしたらよいか、夜毎庄

    屋の家へ集っては相談した。拝庭と上向では、このさい一家の主達が、綾子舞をひっさげ

    て、江戸へ上り木戸銭をかせごう、ということになった。いわば出稼ぎ芸である。たべ盛

    りの男衆が、一家で一人ずつ出稼ぎでいなくなれば、老幼婦女子は“冬ごもり”で何とか

    食いつなぎ、春を迎えることができよう。座して死を待つよりは積極策をとろう、思いき

    って江戸へ出て“綾子舞”で稼ごうということになった。そこで村人達はまず庄屋を通じ

    幕府に願い出ることにした。江戸時代折居村や女谷村、清水谷村などは御天領地と呼ばれ

    、徳川幕府の直轄地であった。この天領であることを最大限にいかして飢饉を乗り越えよ

    うとこころみたわけである。天領民といったら他藩が手を出せない。旅も安全が保証され

    る。江戸公演が実現したのは、それから4年後の天保5年(1834年)の秋のことであった。

                                    おわり

        【古文書資料1・文古世話人与左衛門殿宛(原文と部分)】
        【古文書資料2・文子舞役附表(原本)】

        


         目次へ       

   inserted by FC2 system