綾子舞古文書発見

    5“綾子舞”江戸出府

     上京して3年たった、高校2年生の春、私は文京区立の小石川図書館で偶然、ふるさと

    の先人達が黒姫神社再興のため江戸へ出て“綾子舞”を演じたという古い記録に出会い、

    おおいに感動した。   その江戸公演を裏付ける『遊歴雑記』に十方庵が、文化12年

    (1815年)9月のこととして次のように書いていた。


      
去し文化十二年九月、越後頸城郡何村の百姓かや、居村の鎮守の宮を再興のため、老

     若打交り八人出府し、縁有て、浅草寺境内ニ旅泊し、再建の要脚にせんと、古来より村

     に伝来する綾子踊というものを舞て、金二百疋づつにて先々の招に応ず。予が召仕ふ奴

     僕に所縁有て、或日本宅へ招きけるに、伴の者共夕方六人入来し。灯を点ずる頃より綾

     子踊をはじめ、子の半刻ばかりに終りける。但し踊とはいへども能狂言に似て、番組は

     、宝の槌、大黒舞、日高詣、小原女、三人座頭、鞍馬の竹切など六七番狂言せり。鳴り

     物は笛、しめ太鼓、チャンギリの三にて、楽屋に囃子事也。男たる役は麻上下を着し、

     女たる役は、振袖を着して、細帯を前にて結び、下頭をば茜の長き木綿にて包み、一人

     のみ出て狂言するあり、又は、二人三人四人も男女打交りつつ勤る狂言も有て、物いふ

     言語は更に能狂言に似たり。但し初め出て先辞儀し、勤候狂言何々ぞと断りて直に初む

     るに、不骨の農民の背高きが紺の踏皮はきたるも、又、鼠色の踏皮はきたるも有りて、

     女とやつし、又、大名とも成て、様々の狂言を勤む、綾子踊とは称すれど、更に踊るに

     はあらで、全は能狂言の面をあてず、一風を転じて、不骨におかしみ有りて古雅なるも

     の也。此躍四百数十年伝りて越後にありとかや。

          『遊歴雑記』(十方庵著、江戸叢書所収)

     〔注〕「越後頸城郡何村」とあるのは、越後刈羽郡鵜川村で、綾子踊とあるのは、綾子舞
        であり、老若打交り八人出府は、全部男性で、女役は男が勤めた、現代歌舞伎と
        同じである。伝承については、文化十二年にすでに四百数十年伝わりて、とある
        から500年の伝来説から、さらに100年遡り600年の伝来ということにな
        る。


     この『遊歴雑記』との出会いから一年後の高校3年生の春に私は、東京都文京区にある

    国立国会図書館分館の東洋文庫で平戸藩主第34代松浦静山公が書きしるした『甲子夜話

    (かっしやわ)』に出会うことになった。著者の静山公は平戸藩主歴代の中で最も優れた文

    学的藩公で、安永8年(1779年)に“維新館”とい藩校を創った。 平戸藩学は山鹿素行

    (やまがそこう)に始源を持つことで有名であるが、校名の“維新”という名は明治維新後

    の日本ならいざ知らず、当時はかなり過激な内容にとられかねない言語であった。

    現在の「革命」という言葉のよう響きがあった。当然幕府から下問があったというが、静

    山公は軽く受け流して、ことを納めたという。 静山公は「粋な殿様」であった。当時の

    大名としては珍しく下々のことに通じ人情、恋愛にいたるまで知りつくしていたようであ

    る。静山公の著書『甲子夜話』は長い歳月をかけた大部の作であって、今日の読者の興味

    にも応える内容をもつ特殊な江戸文学として、研究者は高く評価している。『甲子夜話』

    は270巻に及び、江戸楽歳堂を版元にして感恩斎文庫として出版された。現在も平凡社

    の東洋文庫で版を新たにして残っている。次に転載する『甲子夜話』によって折居村の人

    々が天保5年(1834年)に江戸に出て、両国橋の広場で興業し平戸藩邸にも招かれて演じた

    ことがわかる。


      天保五年 予カ上邸ノ近所ニ久シク住ム鍼工(シタテヤ)、或日上邸ニ於テ云フニハ、

     コノ頃越後ヨリ彼地ノ農夫共来タリ、其ノ地ニ伝ヘタル技舞ヲ為ス、コレ近年彼地困窮

     ナレバ、都下ニ出テ木戸銭ニ換ヘ、窮ヲ救ハンカ為トゾ、人呼デアヤコノ舞ト謂フ、因

     テ頃ロ両国橋ノ広地ニ技場ヲ構ヘ、衆人ニ観ス。故ニ侯家ヘモ召サルレハ至リ舞フ、其

     越後ノ客ニ知人アリ、召サバ介スベシト、因テ上邸ノ有司、舞場ヲ設ケテコノ技ヲ為サ

     シム。アヤコト云フ地ハ 柏崎ノ近辺トカ云。其日ニ至リ霜月四月予モ肥州ノ招ニ応シ

     テ往キ観ル、マズ舞台ノ体ハ、有司ノ仮ニ設タルナレバ、タヾ屋根ヲナシ、下ハ棚ニ席

     ヲ鋪キ、後ニ幕ヲ張タルニテ、コハ彼徒ノ為シタルニ非ズ、サレドモ楽屋ノ入口ニ張タ

     ル幕ハ、布ノ古ビタルニ円(マル)ニ橘ノ紋ヲ出ダス、コハ彼徒ガ自分ノ幕トゾ、又其舞

     ト称ルノ番組トテ呈(イダ)ス、其目、コレ彼ノ示ス所ノママ也、鄙野訛謬ハ一々毎ニ所

     ニ注ス。又、姑ク番附ノ事ハ眞テ、カノ舞の様体ヲ云フニ、初ヨリ舞台ノ後、幕ノ前ニ

     囃子ノ人竝ビ在リ、能(ノウ)ナレバ太鼓ノ居ル所ニ、笛二人二管、其次小鼓一人、其次

     横座ニ太鼓一人、此人大太鼓ヲ置ヒテ、太鼓ト併(ナラビ)ウツ、歌ハ総テコノ鼓者唄フ

     、横座ノ次銅拍子一人、コレモ亦唄フ、合テ五人、楽器六ツナリ、皆麻上下ヲ着シ、服

     ハ木綿ノ紋付等ナリ、能ノ如ク一番毎ニ出入セズ、又其舞ノ始メ毎ニ同服ノ者一人舞台

     ニ出テ、其舞趣意ヲ伸(ノ)ブ、世ノ口上言(イヒ)ナリ。 (中略)


                     『甲子夜話』第一巻之十(肥前平戸藩主)松浦静山著


     このあと囃子と狂言を十演目演じている。 「恵比寿舞」「恵ほふし折」「明神くるい」「恵美

    すくい」「竜さ川」〆中入「三条古鍛冶」「さい鳥」「手ちかい」「石山詣」「ゆうせん」〆 となり、

    続いて一演目ずつ舞の内容、舞台道具や舞台衣装を綿密に記述し、管鼓の演奏振り詞の音

    節まで詳細に観察し長文の記録にとどめている。

     肥前平戸藩主・松浦静山侯の克明な記録により、江戸時代折居村に三組、女谷村に二組

    の“綾子舞”一座が活躍していたことがわかった。そして、文化12年(1815年)の女谷組

    江戸出府の19年後の天保5年(1834年)に折居組も出府したのである。明治初めまで近隣

    の村々で興業。時には県外にもでることもあった。日清戦争をはさんで衰退したあと、折

    居では地芝居の流行で廃絶。そして女谷の下野、高原田に残されることになった。口伝で

    、折居の“綾子舞”が江戸へ出て公演したことを子供の頃に古老に聞かされていた私は、

    ふるさとの何処かにこれを裏付ける古文書があるに違いないと帰省の度に村中を探し歩い

    た。


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