綾子舞古文書発見

    4.由来と伝承 中世 落人を迎え入れ文化華やぐ

     “綾子舞”・・・・・このあでやかな名前の由来と伝承に関する下野の言い伝えは四つ。

    一つ目は、奉納舞台が畳三枚の狭さで足を“あや”にして踊るからという説。二つ目は、

    小道具に小切子(こきりこ)(あや竹)を持って踊るからという説。 三つ目は、14歳か

    15歳の少女(やや子)が踊るからという説。四つ目は、ドラマチックなものだ。永正4

    年(1507年)8月1日、越後守護代・長尾為景(ためかげ)が越後守護の上杉房能(ふさよし)

    の養子定実(さだざね)を擁し、幕府と通じてクーデターを敢行した。房能は防戦の覚悟を

    決めたが、駆けつけてくれる国人もなく、翌2日府中を逃げ出した。このとき安国寺文書

    480通が紛失したというから、府中の町のゴッタ返していた様子がうかがえる。

    一行は関東への近道である安塚街道をひた走りに逃れたが、 松之山温泉を過ぎて天水越

    (あまみずごえ)にさしかかった時、追いすがる為景方の高梨・上野らに包囲され、 7日未

    刻(ひつじのこく=午後2時)自害してしまった。供の衆は、一門の山本寺定種(さんぼん

    じさだたね)や奉行人の平子朝政(たいらごあさまさ)をはじめ  尾州(びしゅう)父子・孫六

    など、ことごとく壮烈な最期をとげた。しかし、房能の奥方“綾子の方”と随従の婦女子

    は加納山城主毛利の庇護を受け、知行所である山間の女谷に落ち延びた。またこの地の民

    俗芸能“綾子舞”は、房能夫人綾子の方に関係づけて伝承されたものである。・・・・と県史

    は伝えている。

     かくまわれた先の女谷でつれづれなるまま地元の人々に伝えたというのが定説である。

    この説に従うとおよそ500年の伝承になる。以上は下野の説である。だが近年、高名な

    脚本家、早坂暁さんが「出雲の阿国」に由来と仮説をたて、新潟テレビ21が開局10周年

    記念として制作し平成6年(1994年)3月6日にテレビ朝日・ABC系で 「語り継がれゆく

    もの〜柏崎・綾子舞をめぐる物語」が全国放映されてから、出雲の阿国伝来説、しかも鵜

    川での“綾子舞”伝承500年の歴史が100年も縮んで400年と間違えて流言され、

    地元では大変迷惑がっている。

     ところで、高原田では別の伝承を信じている。この地では「小切子踊」の説を取り上げ、

    菅原道眞公が太宰府に流された折の説を採る。 その出発の前日、道眞公の侍女の一人で

    ある文子(あやこ)が夢に、「あす道眞公が三条大橋を通るのでこれを見送るように」との

    お告げがあった。

    翌日行ってみるとその通りだったので、別れの舞を舞おうとしたが手元に扇がなかったの

    で、橋のたもとに落ちていた竹の小切れを持って踊った。ここからあや竹を持って踊る=

    小切子踊=がうまれた。“文子舞”が“綾子舞”になり、往古女谷に落ち延びて来た北面

    の武士、北国茂太夫が京の都から伝えたというもの。この説にも頷けるものがある。とい

    うのは、この後の 「6.古文書発見」の項で紹介する 『甲子夜話』の記述に、「楽屋ノ入ニ

    張タル幕ハ、布ノ古ビタル円(マル)ニ橘ノ紋ヲ出ダス、コハ彼徒ガ自分ノ幕トゾ」 という

    文言があるが“北面の武士”とは京の都で上皇・院の御所を守った武士で、折居に落ち延

    びてきた北国茂太夫が“円(マル)ニ橘ノ紋”つまり橘一門の武士という推理が成り立つ。

     “北面の武士”といえば平清盛と同じ年に生まれ「保元の乱」と「平治の乱」の乱を戦った

    佐藤範清(のりきよ)が有名である。この二つの乱は、骨肉相争う戦いであったが“北面の

    武士”として身近でこの世の地獄絵図を見た佐藤範清(のりきよ)は、妻子を捨て、保延6

    年(1140年)に出家して西行と名乗り、四国や陸奥国まで行脚し歌を詠み続けた。“善し悪

    しを思ひわくこそ苦しけれ ただあらるればあられける身を”これは西行の出家の動機を

    物語っている歌といわれる。意味は 「どちらが正しく、どちらが間違っていると言い合っ

    て敵味方に分かれて争いの渦中に巻き込まれることは苦しい。人間はちょっと冷静になっ

    て、平和に過ごそうとすれば、過ごすことのできる身であるのに」 であるが多分、北国茂

    太夫も西行と同じように平和を求めて鵜川の里に落ち延びて京文化の“綾子舞”を村人に

    伝えたのではなかろうか。しかし、どちらの言い伝えも昔し昔しの物語。だがいまでも下

    野、高原田の双方が「こちらが本家」と譲らない。

     私の母の実家は高原田。父の実家は下野で、両家とも綾子舞を伝承してきた家柄なので

    あちらを立てればこちらが立たず、下野の出来を誉めると、高原田がひがむ、といった具

    合。双方、本家争いをし、しのぎを削るあまり、冬の稽古はムシロを張ってまで技を盗ま

    れまいと対立していたのである。こうした対抗意識が逆に“綾子舞”を守ってきたともい

    える。

     しかし、多くの古典芸能がそうであったように、綾子舞もまた今日まで栄枯盛衰の歴史

    をたどった。下野の口伝では、今から187年前の文化12年(1815年)の飢饉のおり、江

    戸に出て公演したが、当時江戸も不景気で、稼ぐことより木戸銭でその日その日を食いつ

    なぐのが精一杯で、帰りは利根の渡しで舟代を払う金さえ無いといった有様であったとい

    う。窮した挙句、一計をめぐらし、「螺貝」と異名をとっていた布施某に一芝居うたせる

    ことに一決、「螺貝」が最後に舟を下りることにした。舞台道具をおろし、仲間が下舟し

    て歩き出しても「螺貝」は舟底を何やら探しまわっている。ところが、やおら大声でわめ

    きたてた。突然の大声に舟頭は周章狼狽してしまった。その一瞬のすきに「螺貝」は舟か

    ら飛び下り一目散に逃げ帰った、との言い伝えがある。
          


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