綾子舞古文書発見

    3.国立劇場公演                              

     “綾子舞”の保存と伝承の歴史の中で、最も多くの演目を一時に公演したのは昭和46

    年(1971年)9月の東京公演であつた。国立劇場創立5周年を記念して行われた、第12回

    民俗芸能公演に綾子舞が選ばれたときである。私と後輩の星野義博さんとは9月3日昼の

    リハーサルから全プログラムを国立劇場の協力を得て70本を超す8ミリカラーフィルム

    に撮影した。録音はオープンテープで4時間45分の量となった。 貯金をはたいての機材

    購入だつたが、今になっては貴重な記録となった。

     3日夜の各国大公使を招いての外務省特別鑑賞会を皮切りに、3日間演じられた。

    延入場者数2,300人、こうした出し物では最高の入りだったという。 ことに、各回と

    も外人客の姿が目立った。また、観客のレベルの高さでも最高のものであったという。

    民俗芸能の専門家はいうにおよばず、鎖国以前のものだけに中世の外国との交流からその

    影響を洞察したいという歴史学者、あるいは、能、狂言、謡い、囃子言葉などの面から言

    語学的に見る国文学者。その美しい衣装に驚嘆する服装史家。名だたる歌舞伎役者、舞踊

    家、邦楽家と舞台を見つめる姿は真剣そのもの。「それだけに怖いですよ」といった総監

    督の西角井正大氏の言葉が印象に残った。民俗芸能につきものの解説、紹介のアナウンス

    は一切なし。幕間に各地の古歌舞伎踊りのスライドを次から次へと見せるといったもの。

    「観客の皆さんの方が、それぞれの見方で、良く研究なさっているから下手に解説しない

    ほうがいいと思って」と西角井氏。そうした観客に混じって私達、在京鵜川会のメンバー

    が各回に大勢集まり、4日夜の公演には120人もが、国立劇場のど真ん中に陣取り、盛

    大な声援を送った。熱気はいやが上にも盛り上がり、舞台と客席とを温かい雰囲気で結び

    つけた。

     ドンドン、ヒャラリと華やかな音楽に乗って、舞い出て来た少年を見たとき、私はもう

    国立劇場だということを忘れて、鵜川のお宮さんに帰っていた。「三番叟」の布施誠君はす

    べてのプログラムのトップを飾ったが何と気品があったことか。続く、高原田と下野の少

    女達の「小切子踊」「小原木踊」「常陸踊」「堺踊」「印旛踊」「恋の踊」などは綾子舞の中心をなす

    楽しく美しい踊りであるが、まさに、中世の絵から、そっくりそのまま抜け出て来たよう

    で夢見心地となった。ユライを付けた振袖姿の何としなやかなこと。現代に、全く消えう

    せようとしている、日本女性の真の美しさを再現してくれた。その少女達の美しい踊りに

    もまして、感動させられたのは下野の押田七五郎さんや布施孫作さん、高原田の猪俣時治

    さんや猪俣勝造さんら、綾子舞の守り神ともいうべき古老達の老いて益々味わいのある座

    元の音楽であった。麻の裃を着て終始舞台に端然と座り、太鼓や鉦を打ち、笛を吹く姿は

    ふるさとの山、黒姫にも似て、激励に駆けつけた120人の村出身者の私達を、感激させ
  
    た。

     “綾子舞の里”鵜川には、古来伝統的に「共同作業」という助け合いの慣習があった。

    田植えや稲刈りの時期になると、親戚へ手伝いに行ったり、来てもらったりした。私は物

    心ついた3・4歳の頃から母に連れられて下野の塗谷(のんだに)へ行くことを楽しみにし

    ていた。それは、農作業の合間に押田七五郎さんが吹く笛が聴ける、という楽しみであっ

    た。綾子舞の練習もしばしば見せてもらった。農作業が一段落し雪の降り始める11月か

    ら翌春、まだ軒下に1〜2メートルもの雪の残る5月にかけて稽古が続いた。舞子や座元

    は、凍てつくような冷たい板の間で、素足で踊りや狂言の所作を稽古していた。寒さで膝

    頭がガクつき、どうにも両足が思うように動かない様子であった。舞に舞って体に火照り

    が出てきてようやく指導者から「よし」がでた。“綾子舞”を演じる者にとって、この寒稽

    古が一番辛かったという。しかし、寒稽古によって芸が鍛えられ磨かれたという。こうし

    た寒稽古の時には、決まって窓という窓には莚(むしろ)が張られていた。よその集落の者

    に技を盗まれまいと警戒してのことだった。こうした下野と高原田の両集落の対抗意識が

    あってこそ、綾子舞が今日まで伝承されて来たともいえる。七五郎さんは私に熱心に笛の

    稽古をつけてくれた。それも、私が中学の途中で東京へ遊学することで終止符を打った。

    その七五郎さんは、昭和53年(1978年)に惜しまれつつ、“綾子舞”に捧げつくした75

    才の生涯を閉じられた。今でも私の心には七五郎さんの吹く笛の音が響いてくる。

    “綾子舞”の音楽は美しく純粋だ。リズミカルで典雅華麗、まことに雅な調べである。民

    謡でもない雅楽でもない、小唄でもない。この歌謡は、謡いもののオリジン(起原)となり

    、日本音楽史研究の上でも欠く事のででないものである。私にとっての音楽への開眼は七

    五郎さの吹く笛の音であった。

     最終日の5日、60年振りにこの日のために復活、演じられた注目の「佐渡亡魂」は、満

    員の客席を湧かせた。出稼ぎに出た商人(あきうど)の、佐渡での現地妻との哀れな別れを

    通して、何時の世にも変らない人間の業を、男と女の性の悲しみを、狂言の形でまことに

    良く表現していた。佐渡妻を演じた押田貞雄さんは、本職の歌舞伎役者そこのけのペーソ

    スに富んだ名演技を見せ、本妻役の高橋信栄さんは、「三条小鍛治」などの女房役が板につ

    き、商人役の布施富治さんは、良く通る声と舞台なれした名演技で、男の身勝手さを出し

    、亡魂を取り払う山伏、押田勝幸さんの堂々たる演技で、何の演出上の仕掛けもない舞台

    で、そのピタリと合った呼吸が、十分な心理劇を展開していた。能、狂言の研究家、羽田

    旭氏(当時開成高等学校教論で同僚、現国立文化財研究所研究員)は、この佐渡亡魂を手

    放しで賞讃してくれた。鵜川を知らない東京の人々は、越後の雪深い寒村に、かくも素晴

    らしい古典芸能が今も演じられているということが信じられないといった風であった。


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