綾子舞古文書発見

    2.古典芸能綾子舞                      

       こんな山奥の鵜川の里におよそ500年前から伝わる古典芸能が“綾子舞”である。

    「踊り」「囃子舞」「狂言」の3種目からなり、踊りは少女が、囃子舞は少年や青年が、

    狂言とお囃子は青年層以上が演じる。 いまでは国の重要無形民俗文化財に指定されてい

    る風流の小歌踊りとして、この“綾子舞”ほど 研究者や舞踊家や民俗芸能愛好家などか

    ら注目されたものは他にないという。 出雲の阿国の“古歌舞伎踊り”の面影を残してい

    るため、鵜川の里へやたら研究家がおしかけたりするが、 とにかく、美しく楽しい踊り

    である。演じられるのは毎年9月の半ば、鎮守の社(やしろ)“黒姫神社”。 ご祭礼の日

    だが、このころには村をとりまく田んぼには、こがねの稲穂がサラサラ、スズメのさえず

    りが、やたら耳にとどく季節である。この日になると、普段は静かな鵜川の里がにわかに

    活気づく。 テレビ局やプロやアマのカメラマンがつめかけ、場所取りで一騒動あったり

    する。 近年ブームで新潟県内からはもちろん、東京、大阪、京都からも見物客が訪れ、

    鵜川の人々を驚かせる。

     舞の主役は“村の娘さん”たち。 6畳ほどの広さにしつらえた舞台の上で踊るのであ

    る。舞台は神社と御神木である樹齢千数百年ともいわれる老杉との間に設けられ、ここで

    大太鼓、締太鼓、6穴の篠笛、鉦のハヤシで舞う。大太鼓と締太鼓は一人で同時に打つが

    、笛吹き役は二人、内一人は唄を兼ねる、鉦が一人、つまり計四人のおハヤシである。

     ドンドン、ヒャラリ、まことに器用なおハヤシだ。ところで、それにのって現れる舞子

    の娘さんは、いずれも頭に赤い布の“かぶりもの”をつけての登場。「ユライ」という名

    の“かぶりもの”である。そしてその赤い布は、一端をダラリとおさげ髪のように後へた

    らしている。これが舞うたびにヒラリ、ヒラヒラ。衣装は長い袂(たもと)袖(そで)で、帯

    はダラリとたれたダラリ結び。手には舞扇。これでうかれたように踊りだすのである。古

    歌舞伎踊りの特徴は体の線を生かしていることだというが、そのうかれたような踊りのな

    かに、この体の線がイキイキとしている美しさ。野を渡る初秋の風に乗って野の花の香り

    も漂う別世界にいるようだ。舞い終り、一同が楽屋に戻る際、先頭の舞子を後の舞子が扇

    をかざして送り込んでやるなど、出端、入端のゆかしい昔の舞台作法がまだまだ生きてい

    る。遠来の観客たちは、新潟の山の中まで来てよかったと思う。中学校のとき、同級生の

    高橋美智子さんがこの舞子に選ばれてご祭礼に舞った。今でもその美しい舞い姿がよみが

    える。40数年たった今でも同級会の席などで舞ってくれる。

     だが、実は近年この綾子舞は危機に瀕している。

    「農村人口の都会への流出が原因です」。宮原に住む綾子舞の長老布施富治さん(80歳)

    は悲しそうな目で訴えた。踊り、囃子舞、狂言の3つを合せ60近くある“綾子舞”の演

    目のうち、今演じることの出来るのは「小原木踊」「小切子踊」「恋の踊」「常陸踊」など6つ。

    狂言は「三条小鍛治」「佐渡亡魂」「龍沙川(りゅうさがわ)」「海老すくい」など10、囃子舞は

    「恵比寿舞」「亀の舞」「指鳥舞」「猩々舞」など7つで、合計23演目。

    500年の時間と口伝による伝承を考え合わせれば、すくない方ではない。しかし、明治

    初年まで、鵜川の里に数組あった“綾子舞”の座元が、近年では女谷の下野組そして高原

    田組の二組のみ。 下野組では布施富治さん(80歳)、布施武彦さん(44歳)、大野和重

    さん(45歳)、関一重さん(51歳)が、高原田では猪俣英信さん(72歳)が中心になり、

    3・4人の仲間を加えて笛、太鼓、鉦(ちゃんぎり)など囃子方を勤めている。いずれも子

    供の時から狂言(昔は、綾子舞とは呼ばなかった)が好きでたまらない人達。下野・宮原

    組の場合、公演前一週間程度の“特訓”が連夜行われる。国の重要民俗無形文化財指定に

    続いて、54年には保存振興会が新潟県から功労賞を受けるなど“栄光”に輝いている綾

    子舞だが、「座元のなり手がないことが悩みですねー」と富治さんはいう。離村が続くな

    かでも集落には囃子の心得がある人はまだいるはずだ。でも、ほとんどが柏崎の中心部に

    通勤する“サラリーマン”。富治さんが仲間にさそっても「練習は夜勤にさしつかえるし

    、公演で休めばボ−ナス減らされるから」とにべもない。「綾子舞じゃボーナス出さんだ

    ろう、なんていわれりゃどうしよもないサ」とあきらめる。かといって、だれでも演奏で

    きるものでもない。富治さんは、おジイさんの歌を子守唄代わりに育ち、小学生の時、身

    の回りで行なわれる練習を見て、自然に身につけた生活のリズムだ。「職場を定年になっ

    て百姓に戻ったらやってくれるだろう」。淡い期待で待っている。

     踊る女の子は、下野・宮原組が3人一組、高原田組は2人一組、それも高校生までで終

    る。県外就職で去ってしまうためだ。離村で児童が激減、その踊りの組を組むのが大変。

    危機感を持った地元、鵜川小学校では昭和51年(1976年)から、鵜川中学校では昭和59

    年(1984年)から“正課”に綾子舞を取り入れ、下野、高原田の座元を講師に全校で保存と

    伝承に取り組むことになった。指導は月1回2時間。男子は「三番叟(さんばそう)」の囃

    子と舞。女子は高原田スタイルの「常陸踊」と下野の「小原木踊」。祖先伝来の芸を、無

    心に受け継ぐ子供達の姿には感動すら覚えたものである。

    だが、過疎の激流に押し流されて鵜川中学校が平成2年(1990年)3月26日に44年の歴

    史を閉じ閉校、次いで平成7年(1995年)3月25日に明治7年(1874年)に開校した鵜川小

    学校が121年の歴史を閉じ閉校した。しかし、綾子舞の伝承は、柏崎市内在住の住民を

    始め児童が関心をよせ、それらの人々の熱意で受け継がれている。


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