綾子舞古文書発見
1.鵜川の里 大野弘雄
“綾子舞”に関する古文書が発見されたのは、新潟県柏崎市の郊外、“鵜川の里”。
今では、鵜川村は相次ぐ町村合併後柏崎市に編入され、地図を広げても、さっぱり分ら
ない。柏崎の駅から日本海の波の音をうしろに黒姫山にむかってバスで30分あまり。
四周を山に囲まれた摺鉢のようなところにある過疎の村である。 ことに、冬は雪深く
“冬ごもり”と称して冬眠のような暮らしを余儀なくされる土地柄である。現在でこそ
柏崎市大字女谷(おなだに)とか大字折居(おりい)といっているこの地は、江戸時代12
の村に分かれていた。女谷(おなだに)という、どことなくなまめかしい地名を持つ盆地
に、上野(かみの)、下野(しもの)、宮原(みやばら)、駒の間(こまのま)、
高原田(たか
んだ)の5村、谷あいの折居地区に餅粮(もちろう)、拝庭(はいにわ)、上向(うわんけ)、
北向(きたんけ)、阿相島(あそうじま)の5村、それに市野新田(いちのしんでん)と清水
谷(しみずだに)の2村があった。明治維新(1868年)を迎えるまで、女谷と折居の一部、
そして清水谷の一部は御天領地といって徳川幕府の直轄地であった。その他は桑名藩領
で市野新田は清崎藩領となっていた。 明治21年(1888年)の町村制施行後
女谷村、折
居村に分かれていたが、明治34年(1901年)に合併して鵜川村になった。村史によると
往古、中世には「宇河荘」(穀倉院領)に属していたという。鵜川の名前は魚川の転訛で、
川魚のよく繁殖する川ということと言われている。
私は子供の頃、暇さえあればこの川へ出かけ、カジカ採りをやっていた。夏には流れ
の細った川を堰止めて、水の無くなった河原でピチピチはねるアユやウグイやハヤや川
マスなどを捕らえていた。さらに、ヤマメやイワナを追って尾神岳や兜巾山の奥山の谷
川に分け入った。魚獲は多かった。桑山太市氏の柏崎伝説集によれば、昔は鵜が沢山い
たからこの名がついたというが、川魚の種類は多いが鵜など一羽もいなかった。